こんにちは。もみじです♪
大腿骨頸部骨折で緊急入院した高齢の母が、退院後ひとり人暮らしができるほどに回復。
諦めちゃいけない!って教えてもらった気がします(^.^)
- 母の生活を支えるサポート
- 生活の感覚が戻らず憤る母
- ヘルパーさんとの関わり方に戸惑う
- 1日500mllという水分制限への不満
- 退院4日後、また転倒?
- 自信をなくしてしまった母
- ヘルパーさんから言われた「覚悟」
- 元気ハツラツな母の声
- おわりに
母の生活を支えるサポート
退院後、家族が交替しながら「見守り介護」のスタイルで合計3週間ほど泊まり込みました。
退院翌日から早速、
・1日朝夕2回、ヘルパーさんの訪問。
・週2回、訪問リハビリ。
この2つのサポートを受けながら、母は「ひとり人暮らしをしていく心構え」がはじまったのです。
入浴介助 週3回。
毎日朝夕の検温、体重・血圧測定。
ヘルパーさんが様子を見ながら体調管理をしてくださるので、入院前の生活より安心です(^.^)
生活の感覚が戻らず憤る母
とはいえ、1ヵ月半の入院生活で、母は日時や日常生活の習慣の感覚が戻らず、様々な心の葛藤と闘っていました。
退院して2日後、訪問リハ施設の医師が診察にきた際に、
医師「今日は何年何月何日でしょう?」
母「平成……」そのまま沈黙。
医師が「大丈夫ですよ〜」と言うたびに顔が暗くなる母。
慰めが屈辱になる、まさにそんな表情。
緊張していたせいなのか、思うように答えることができず…
医師が帰った後、母はずっと不機嫌^^;
入院中は6人部屋の真ん中。太陽を見ることもなく…。
何も考えずに、ただ与えられた食事を食べ、与えられた薬を飲み、排泄する…という生活。
人の気配があるほうがいい…と、母が大部屋を望んだとは言え、1ヶ月半もの間、空を見ない生活は母にとって人生初の「閉ざされた世界」だったわけです。
〔戦争時代は別として〕
コロナ禍で面会も禁止。
年老いた人でなくても、感覚的なものがすっかり変わってしまうのは、いたしかたないことだと察します。
生活全てを一人で管理し、こなしていた母。
退院直後は、すっかり別人でした(> <)
ヘルパーさんとの関わり方に戸惑う
毎日、朝8時と夕方4時ごろにヘルパーさんが来てくれました。
お風呂の介助は週3回。
母は、他人さんが家の中に入ってきて、台所に立つなどの光景に面食らってしまったのか、ヘルパーさんに何かを聞かれても、即答せずに、しばしぼんやり…。
私がそばで答えてあげる事は簡単なことだったのですが、一生懸命に記憶をたどっているように思える母の頑張りを妨げてしまうと思い、ひたすら母が口を開くのを待ちました^^
(子育てと似ている…^^;)
そんな母も、日を追うごとに現状を理解し始め、ヘルパーさんはお手伝いさんではなく、ひとり暮らしできるようにサポートしてくれる人…ということを認識できてきたのは1週間くらい経った頃でした。
1日500mllという水分制限への不満
母は心不全の傾向から胸水が溜まりやすい状態になっていて、入院中は食事以外の水分摂取を制限され利尿剤を飲んでいました。
退院時に付き添った兄によると、特に注意事項はなかったようですが、入院中のいくつかの情報から、
水分摂取1日500mlまで(食事以外)
ということを心かけ、次の内科に検査に行くまでの10日間は、私の管理のもと水分の摂り過ぎに留意していました。
日に何度も「喉がカラカラに渇く」と訴えてきて、かわいそうに思いつつも、病院での指導を思い出し、少量ずつ飲むよう促しました。
私に監視されていると不満いっぱいの母^^;
制限されると余計に執着する心理。
私の顔を見るたびに不平不満をぼやきっぱなしです^^;
退院4日後、また転倒?
退院して4日目、家の中での動き方も少し慣れてきた日の朝、
母の寝室から何とも言えない悲鳴のような奇声のような、か弱く長い声が聞こえてきたのです。
「ん〜〜〜〜…………」という感じ(・・;)
慌てて見に行くと、両足を投げ出して畳の床に座り込んでいる母。
え〜‼
また転んだ?(*_*)
「お母さんっ‼‼」
声をかけると意識は意外にしっかりしていて、
「着替えを取りに行こうと思ったの…杖がなくても行けると思ったのよね…」とつぶやく…^^;
いやいや、無理でしょ!と私の心の声^^;
その後、母は自力では立ち上がることができず、それでも手を貸そうとする私の手を思い切り払い、
「自分で立つから!」と踏ん張るも、左足は投げ出したままなので力が入らず立てず......
数分間の奮闘。
この無理な態勢では他の箇所を傷めてしまうと思い、支えて持ち上げベッドに座らせました。
母は
「歩いているとふわふわする」と言い、その日の朝の血圧はいつもよりずっと低め。
もしかしたら血圧が下がってしまって「ふわっ」として、足に力が入らなかったのかな…とか。
たまたま畳の目で滑ったのか…
本人は「どうして床に座り込んでしまったか覚えていない…」
と言い、その後来たヘルパーさんに状況を聞かれても、はぐらかしたり、とぼけたり…(^_^;)
認めたくなかったのでしょう…。。。
日頃から血圧が高めの母は、血圧を下げる薬をらってもらっているので、それを機に
退院時に大量にもらってきた様々な飲み薬を調整してもらえるよう、内科に相談してみることになりました。
自信をなくしてしまった母
寝室で座り込んでしまった日から、母は自信をなくしてしまったのか、歩行の足取りは重く不安定…、退院直後より気力が弱まっているようにさえ思われ、明らかに状況は逆行してしまいました。
ヘルパーさんやリハビリの先生たちがその様子を心配し、
励ましながらも、決してプレッシャーにならないような優しい語り口で、
「お母さん、無理のない範囲で、やっていこうね、今が大事よ〜♪」と懸命な声掛けをしてくださっても、母は生返事。
順調に回復していると思っいた矢先の転倒(と本人は言いたくない)。
不安から歩行練習への気力も萎え、椅子に座ってぼんやりと外を眺める時間が増え、呼びかけてもワンテンポ遅い反応。
そして母の口から、
「〇〇(私の名)がいるうちは、〇〇が働いて…」
う〜〜ん。
どうしたものか…(・・;)
私が実家に居ることが母にとってマイナスになっているのではないか!と初めて思った瞬間でした。
ヘルパーさんから言われた「覚悟」
退院から1週間経った頃、いつものように夕方来たヘルパーさんから帰りがけに呼び止められました。
プロの目から(母の様子を)見て、思うことがあったようです。
マスクをしていても、はっきりと分かるニコニコと真顔を混ぜた微妙な表情で、こう言われました。
「心配なのはわかります。でもね、家族の方が、お母さんを手放す覚悟が要るんです(^^)」
覚悟が要るのは母ではなく私たち家族だった‼
「ご家族がいるとお母さんは甘えてしまいます。
一人暮らしをしていくことを見据えて準備して行くのであれば…」と
長い一呼吸をおいてくださったので…
その後は私の口から、
「私たち家族が長く居ることがマイナスになってしまう、ということですね」
ヘルパーさんは、頷きながらニコリと微笑みました。
涙が出そうになりました。
全てお見通し。
ありがたい…(T_T)
その一言で心が決まりました。
私は義姉(兄嫁)との交替の日を早め、予定より早く実家から帰ることを決め、後半担当の義姉も引き上げる日を早め、合計3週間で家族の見守り介護は完全撤収することにしたのです。
3月下旬のことでした。
元気ハツラツな母の声
4月。
義姉も引き上げた後、ひとり暮らしに戻った電話越しの母の声は、思いがけずも元気で明るく、ハイテンション♪
朝夕にヘルパーさんが来てくれることで、社会とつながっている感覚なのでしょう。
ヘルパーさんや訪問リハの人たちの時間管理をちゃんとしよう!と、懸命に自分を奮い立たせ、それが元気の源になっているように思われました。
「あと1分でヘルパーさんが来るの。あ、来た!じゃあね♪♪♪」
と電話を切った母。
もう大丈夫(^^)*・♬
マイペースな一人暮らしを堪能しながら、ヘルパーさんのサポートを受け、社会とつながり、とてもイキイキと暮らしていました。
内科でのレントゲンでも、胸水は増えておらず、水分摂取の制限は解禁!
日時の管理、薬の管理、食の管理(生協の注文)も、出来ることはすべて自分でこなし、お陰様で母本来の「忙しい毎日」に戻りつつあります(^^)v
おわりに
骨折→入院→退院→自信喪失→復活。
強い底力を見せてもらった気がします。
緊急入院し、手術ができないかもしれない、と言われたとき、正直言って家族は、母の人生終盤の覚悟をしました。
でも母は、いえ、母が一番、純粋に「復活する」と信じていたのだと思います。
母がつまずいた庭の水場のコンクリートは16年前に亡くなった父が作ったものでした。
ちょっと荒療治でしたが、母は大腿骨頸部骨折をした事で、胸水が発覚し、治療薬を始めることができたのです。
父は全部わかっていたのかな。
母が骨折したときに、父の写真は笑っているように思えて、「そんなに呑気な顔しないでよ」と思っていたのを覚えています。
また守ってくれたのね。
ありがとう。
と父の写真に手を合わせました。
人生100年時代、様々な災難は転機と捉え、人生がより良い方向に向かいますように...(^^)*・
最後までお読みいただき、お付き合いくださり、ありがとうございました(^.^)♪